1.パラリンピック水泳競技の開催状況

 パラリンピックの歴史については、日本パラリンピック委員会(JPC)のホームページjpsa_ss_2024_web.pdf (parasports.or.jp)の第2章を参考にされたい。
 このホームページ資料に記載があるが、始まりは第2次世界大戦で脊髄損傷になった負傷兵の治療と社会復帰のためにイギリスのストーク・マンデビル病院においてグッドマン博士がスポーツを導入したことがきっかけである。
 1948年には同病院でアーチェリー大会が開催されたことが原点となり、1952年にオランダが参加、国際大会として第1回「国際ストーク・マンデビル競技大会」が開催された。この大会は毎年行われ、翌年1953年には水泳競技が行われている。その後、毎年参加国が増え、初めてイギリス以外での大会となったのが1960年ローマオリンピックの後にローマで開催された第9回「国際ストーク・マンデビル競技大会」である。(この大会を第1回のパラリンピックと位置づけされたのは、1989年に設立された国際パラリンピック委員会によるもの)
 日本がこの国際ストーク・マンデビル競技大会に出場したのは、1964年の第2回パラリンピックの東京誘致が決まった後、1962年に卓球・水泳に2名の選手を派遣した時となる。
 一方、1963年には脊髄損傷者のみの参加しか許されていない「国際ストーク・マンデビル競技大会」に不満をもつ切断者や視覚障害者が、第1回の「国際身体障害者スポーツ大会」をオーストリアで開催している。1964年の大会を控えた日本はこの大会にも選手を派遣している。

 パラリンピックの基礎データーについては、世界パラ水泳連盟のホームページからアクセスできる。
 イベント情報、パラリンピックの項目検索をすれば、第1回のローマ大会からの情報が出てくるので、主にこの資料を基に作成している。
 https://www.paralympic.org/swimming/events
 ただし注意事項として、ホームページにあるこのデーターについては、1960年~1984年までは、残されている紙ベースの資料から作られており、リレーなどが結果資料に残されていないことがあるなど、メダル数などが不確かなことがあると記載されている。
 第1回ローマ大会からの開催国、参加国、日本選手団数とメダル、水泳競技とメダル数などの推移、上位8か国の推移と日本のメダル獲得推移は、当連盟でまとめた表のとおりである
 この表で競技の発展、第1期として第1回ローマ大会から第7回アイレスベリー大会までの国際パラリンピック委員会(IPC)設立以前、第2期として第8回ソウル大会からIPC設立以降、第3期として第13回北京大会以降、IPCと国際オリンピック委員会(IOC)との合意(オリンピック開催の都市は、オリンピック終了後、引き続いてパラリンピックを開催しなければならない。IOCによる財政的援助、パラリンピックのエリート性の向上への取り組み等の基本合意)がなされた大会以降と区分し、それぞれ1期リハビリスポーツから競技スポーツ、2期エリートスポーツ、3期超エリートスポーツとしているが、これは元JPC参事(現パラ水泳連盟理事長)中森邦男氏の分類による。

2,パラリンピック各大会の概要と水泳競技の変遷

 水泳競技の変遷を見てみると、1960年第1回ローマ大会から1972年第4回ハイデルベルグ大会までは「国際ストーク・マンデビル競技大会」であり、脊髄損傷者のみの大会である。これは、この大会の創始者であるグッドマン博士が、脊髄損傷者以外の障害者を受け入れなかったからと言われている。

 1960年第1回ローマ大会ではリレー種目男子3×50メドレーリレーが実施されているがオープン競技となっている。
 競技種目は例えば、Men’s 50 m Freestyleという種目と障がいの状態を表す 「Complete class 」「Incomplete class」と1-5などの数字を組み合わせて表記され、「Men’s 25 m Backstroke Juniors Incomplete class 2」とあるように25mの競技、ジュニアの競技も行われている。実施種目数は男女合わせて62種目となっている。

 1964年第2回の東京大会では、1部を国際大会として脊髄損傷者、下半身マヒ者を対象に「国際ストーク・マンデビル競技大会」を実施し、2部を国内大会として、その他の肢体不自由者、視覚障害者,聴覚障害者の大会とした。(全体の報告書は、「パラリンピック 東京大会報告書1964―財団法人国際身体障害者スポーツ大会運営委員会」がある。また、「障害保健福祉研究情報システム」のサイトも参考になる https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/handicap/jsad/z16002/z1600201.html#1_03_04
 ただし、パラリンピックの記録に反映されているのは、1部の国際大会のみである。水泳競技では、第1回と同じく62種目が行われ、日本は銀メダル1、銅メダル」1の計2個を獲得、メダルランキングは13か国中11位となっている。
 種目の日本語表記では、「第1級・完全マヒ・二五m仰向自由型」「第1級・不完全マヒ・五〇m俯伏自由型」と言った表記となっている。また、ミックスメドレーリレーがオープンで行われているが日本は参加していない。
 日本選手では、「第5級・完全マヒ・五〇m仰向自由型」に青野繁夫が1分4秒4で泳ぎ銀メダル、「第4級・完全マヒ・五〇m俯伏自由型」で牧岡節美が49秒1で銅メダル、丸岡正宗が51秒7で4位となっている。その他「第4級・完全マヒ・五〇m平泳」では磯崎吉蔵が1分2秒8で4位、丸岡正宗が1分5秒7で5位、「第3級・完全マヒ・五〇m俯伏自由型」で原沢茂夫が58秒1で4位、「馬尾神経マヒ・五〇m俯伏自由型」で青野繁夫が45秒3で4位などとなっている。水泳競技の参加人数は6名となっているものの、報告書に出てくる人と記録は4人である。これは、他競技種目と水泳をエントリーはしたものの、水泳競技には出なかった選手がいたことによるものと思われる。(週刊新潮2020年7月30日号にパラリンピック卓球代表選手として出場した長谷川雅巳選手のインタビュー記事が出ているが、その中で卓球と水泳に出ることで練習したが、結局水泳には出なかったとある)また、青野氏が2つのクラスに出ている理由は、報告書からは分からない。
 水泳競技は東京体育館水泳プールで行われ、競技の運営などには、パラリンピック運営委員会の評議員に松沢一鶴東京都水泳協会会長が、企画委員には菊池章、実行部隊としては、藤村肇、福山信義、荒木昭好、杉山明男、竹本克彦、木本彰ほか80名あまりの東京都水泳協会メンバーが全面的にあたった。パラリンピックの競技役員については、戸惑いも多かったと思うが、競技に精通しているメンバーが故に、現場での解決力は優れたものがあったと評価されている。

 1968年第3回テルアビブ大会でも脊髄損傷者の大会として実施、メドレーリレーはオープン大会として実施となっている。
 日本からは、男子5名、女子1名の選手が参加しているが、4名は陸上競技など複数競技にエントリーをしている。そして、金メダル1、銅メダル1計2個のメダルを獲得している。

 1972年第4回ハイデルベルグ大会からリレー種目は正式な種目となっており、軽度(クラス5-6)と重度(クラス2-4)に分けて実施されている。この大会のクラスは、1A・1B・2・3・4・5・6の7つのクラスに分かれている。
 日本からは、男子3人が参加しているが、いずれも陸上や卓球など他競技にもエントリーしており、メダルはなしに終わっている。

 1976 年第5回トロント大会からは、種目数がそれまでの60種目前後から一挙に146種目に増えており、選手数も100名近く増えている。これは、この大会から切断者と視覚障害者が参加したことによる。(この大会から「国際ストーク・マンデビル競技大会」の名称は使われていない) 
 クラス表記では、1A・1B・2・3・4・5・6に加えて、C1・D・D1・E1・F・F1などの表記となっている。このことから、クラス分類が複雑となり、国際機関で管理や整理が必要となったと記載されている。
 日本からは、男子9名が参加、いずれも他競技にもエントリーをしており、メダルはなしに終わっている。

 1980年第6回アーネムの大会では、脳性マヒ者が加わった。そのためクラスとしてCPC、CPDが追加されている。種目数も146種目から192種目と増加している。
 日本からは、男子6名が参加、内5名は他競技にもエントリーしている。メダルは2人で銅メダル3個を獲得している。

 1980年にグッドマン博士が亡くなり、1984年以降のパラリンピック大会は、車いす使用者のスポ-ツ団体(ISMWSF1952年設立)、切断・機能障がいなどのスポ-ツ団体(ISOD1964年設立)、脳性まひ者のスポ-ツ団体(CP-ISRA1978年設立)、視覚障がい者のスポ-ツ団体(IBSA1980年設立 )の4つの障害者国際組織が加盟する国際調整委員会(International Coordinating Committee (ICC)1982 年設立 )が国際パラリンピック委員会(IPC)の前身として調整にあたった。

 1984年第7回アイレスベリーとニューヨーク大会は、五輪はロスアンゼルスであったが、脊髄損傷者はストーク・マンデビル病院でその他の障害者はニューヨークで開催されている。これは、当初、イリノイ州で脊髄損傷者、ニューヨーク州でその他の障害の開催を進めていたが、イリノイ州の財政難で開催できなくなったためと言われている。一方、五輪組織と障害者スポーツ組織との関係が、まだ構築されていなかったことなどによると解説されているのもある。
 クラスはA1-A9、B1-B3、C4-8、1A、1B、1C 2-6 L4,―L6 となっており、4つの障害毎、その中でクラスを分類しているため、クラス数の増加に伴い、種目数も前回大会の192種目から345種目と大幅に増えている。
 この大会から競技によっては、障害種類別ではなく、異なる障害の選手同士競うことが行われた。(「パラリンピックと日本」田中圭太郎/集英社)競技性追求の始まりと言える。
 日本は、男子6名が参加、内3名は他競技にもエントリーをしている。メダルは1人が2個の銅メダルを獲得している。

 1988年第8回ソウル大会では、ICCの下でソウルパラリンピック組織委員会主催として開催。
 初めて五輪で使用された施設を使ってパラリンピック競技が行われた画期的な大会であった。名称も「パラリンピック」とされた。
 ソウルパラリンピック日本選手団水泳監督中森邦男氏の報告書によれば、水泳は切断・機能障害・下半身マヒ者はソウルスポーツコンプレックス、脳性マヒ・視覚障害者はオリンピック公園のプールと2つの会場で行われた。下半身マヒ者などでは25m競技があり、50mプールを横使用で使うなどの工夫が必要だったことなどによるものと思われる。クラス表記は、番号のみが脊髄損傷、そのうち1が頚髄損傷でA・B・Cに分かれている。A1~A8は切断、C1~C8は脳性麻痺、L1~L6は機能障害、B1~B3は視覚障害者となっている。ポリオは現在では脊髄損傷クラスではないが、この当時は脊髄損傷の中に含められている。
 日本からこの大会の水泳競技には、過去最大の選手数37人を出場させている。(日本選手団報告書では36名内4名は他競技と兼ねるとなっており人数が異なる)
 メダルについては、IPC公式記録では金1、銅2計3となっているが日本選手団報告書では銅2のみとなっている。IPC公式記録金メダルは400m自由形A6クラス茂木秀明氏となっている。銅メダルの女子400m自由形クラス4の戸内久子、男子50m平泳ぎクラスC6大堀豪志はIPC公式記録、日本選手団記録とあっている。この違いについて、日本の報告書などや関係者の証言からは、IPCの記録が間違っているとのことであった。
 また、出場した選手の感想文などからは、世界の強さに圧倒され、競技として水泳をとらえて訓練をしている諸外国と日本の差を感じている。
 監督の中森氏は日本の課題として次のことを報告している。

  1. 障害者のスポーツを健常者に知ってもらう
  2. 現在日本で行われている障害者水泳大会の障害区分(クラス)を国際大会に準じて行うこと、できなくても、国際のクラスに繋がるチェクだけは必要。日本身体障害者水泳連盟に働きかける
  3. 計画的なトレーニング(最低週3回2時間以上)が出来る施設の確保、障害者スポーツセンターに理解、協力して頂くように働きかける
  4. 健常者の大会に出場している障害者の把握、一般の組織に協力して頂く
  5. 日本代表選手の選考を競技主体に考える、都道府県市からの推薦だけではなく、競技種目団体からの推薦を考える必要がある

 
 1992年第9回バルセロナ大会から、クラス分けにおいて、機能的クラス分けシステム(FCS)が導入され、脊髄損傷者・切断機能障害・脳性マヒ者はS1-S10の10段階、視覚障害者はB1-B3の3段階と整理され多かった種目数も163種目と激減した。これは1989年に国際パラリンピック委員会(IPC)が設立され、それまでのICCが調整した最後の大会となるとともに、スペイン国内で毎日テレビ放映が行われるなど、大きなターニングポイントの大会になったと記載されている
 日本からは、男子6名、女子4名 計10名の選手が参加、メダルは銀2個、銅4個 計6個を獲得している。このうちの5個は河合純一である。1個は女子の片桐美智子であった。
 
 1996年第10回アトランタ大会では、バルセロナ大会での成功から逆に開催すら危ぶまれる状況下で、企業スポンサーを募って開催された大会だった。この大会ではMen’s 100 m Freestyle MHがあり、知的が含まれている。 リレーも重度クラス(1-6),軽度クラス(7-10)が設けられている。
 日本からは、男子5名、女子2名 計7名が参加、メダルは金5、銀3、銅4計12個を獲得している。国別メダルランキングでも12位となっている。このメダルの内、河合純一が金2、銀1、銅1の計4個、成田真由美が金2、銀2、銅1計5個 と活躍をした。

 2000年第11回シドニー大会では、バルセロナに負けない大会となった。オリンピックで使用した施設で開催され、競技化が進んだ大会であった。この大会では、知的障害者のクラスとしてS14が位置付けられ、50m・100m・200m自由形、100m平泳ぎ・背泳ぎ・50mバタフライ、200m個人メドレー、100×4メドレーリレー、100×4フリーリレーの種目が実施されている。 
 なお、このシドニー大会では、スペインのバスケットチームが健常者を知的障害者と偽って出場させ、メダルを獲得していたことが発覚、次回からの知的障害者の参加は認められていない。(2012年ロンドンからは参加)
 日本からは、男子12名、女子5名 計17名が参加、リレー競技にもエントリーを行っている。 メダルは金9個、銀5個、銅1個 計15個を獲得 国別ランキングも8位となっている。この大会では、視覚障害者のメドレーリレー、重度の肢体不自由女子フリーリレーで金メダルを獲得、成田真由美選手が金5個、銀1個 計6個、河合純一選手が
 金1個、銀3個、計4個を獲得している

 2004年第12回アテネ大会では、リレーはポイント制度になり、肢体不自由の重度クラス20ポイント、軽度クラスの34ポイント、視覚障害者の49ポイントと変更された
 知的障害者は、参加を認められていない。
 日本からは、男子16名、女子8名 計24名が参加、メダルは金8個、銀6個、銅9個 計23個を獲得、リレー種目でも4種目でメダルを獲得、ランキングは7位、メダリストも前回のシドニーからは3名から15名がメダリストとなった。世界新記録を6種目、パラリンピック新記録を3種目で樹立するなど好成績を出した大会だった。また、日本選手団の最年少でもある山田拓朗(12歳)をはじめとする若い世代の台頭があった大会でもあった。しかし、世界のレベルは予想以上の速さで向上していると感じる大会であった。

 2008年第13回北京大会ではまだ、知的障害者は参加を認められていない。
 北京大会から五輪の後にパラリンピックの開催が義務付けられ、組織委員会も五輪とパラリンピックとが同じ組織委員会として運営を行った大会である。各国は五輪とパラリンピックのメダルを同じ価値をして、競技性を高めて参加した大会である。
 日本からは、男子8名、女子10名、計10名の選手が参加。金1個,銀2個、銅2個 計5個のメダル獲得、順位も21位に後退した。これは、これまでメダルを取り続けてきた成田選手の障害クラスが軽いクラスに変更となったことで、成田選手のメダルはゼロに終わったなどによることが大きい。

 2012年第14回ロンドン大会では クラス14として知的障害者の参加が認められたが種目は100m背泳ぎ、100m平泳ぎ、200m自由形の3種目のみであった。
 また、リレー種目では20ポイントリレーは成立せず、34ポイントのみとなっている
 パラスポーツの認識を大きく変えた大会であり、「high performance sporting event」という言葉が使用され、障害ではなく できることの 能力開発の戦いとして、人々の障害に対する考え方を大きく変えた大会であった。チケットも270万枚を売り上げ、多くのメディアが世界に向けて放映をした。
 日本からは、男子11名、女子8名 計19名の選手が参加。メダリスト6名で金2個、銀2個、銅4個計8個のメダル獲得、メダル順位は17位となっている。世界の潮流は急速にアスリートの戦いになっている。世界の中から日本が取り残されてくと感じる状況にあった。

 2016年第15回リオ大会はロシアがドーピング問題で出場できない大会となった。しかし、ロシアが、それまで獲得していたメダルは、中国やウクライナ、イギリスといったメダル上位国が獲得し、競技力の高い国との格差は広がり、メダルが分散されることはなかった。ロンドンに引き続き、より競技性が高く、アスリートの戦いになっていると同時にエンターテイメント性も向上した大会となった。
 知的障害の種目は200mメドレーリレーが増え 4種目となった。
 20ポイントのリレーは男女のミックスリレーとして種目設定された
 日本からは、男子12名(身体5名、知的7名)、女子7名(身体)計 19名の参加。
 メダリストは4名で金ゼロ、銀2個、銅5個 計7個に終わった。メダル順位は24位となった。

 2021年開催の第16回東京大会は本来2020年に開催されるはずであった。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行のため、1年の延期を余儀なくされた。さらに1年を経ても流行は収まらず、無観客の開催とし、選手等に対する十分な感染対策と検査を実施して開催された。
 日本からは、男子14名(身体10名、知的4名)女子13名(身体9名、知的4名)計27名の参加。メダリストは5名で金3個 銀7個 銅3個 計13個を獲得、ランキングも13位まで上昇させた。この結果は、2019年後半からのナショナルトレーニングセンター活用が、パラリンピック開催が1年延びたことにより、何とか間に合い、強化が進められたことによる要因が大きい。

 過去からの金メダル獲得数上位8位国は下記のとおりとなっている。この表からは、開催国の組織委員会がオリンピック・パラリンピック組織委員会として統合された北京大会以降中国、オーストラリア、ロシア、ウクライナ、アメリカ、などがメダル上位国となり、カナダ、スペイン、日本などがメダル争いから脱落していることがわかる。ロンドンでは、その傾向が一段と強くなり、リオでもその傾向は加速された。
 特に、リオでは、ロシアがドーピングで出場できなかったが、そのメダルは上位国3か国で吸収されたとみられる。
 東京ではロシアはロシアパラリンピック委員会(RPC)として出場したため、メダルは分散傾向に戻ったが、イタリアが台頭してきている。


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